分水嶺を調べると「分水界になっている山脈。雨水を異なった水系に分かつ山の峰々。分水山脈。」となっており更に分水界には「雨水が、二つ以上の水系へ分かれて流れる境界。分水線。」となっている。
中学か高校の地理で習ったことを思い出しながら、播但線で北上していく車窓から生野山地の山々を見上げていた。生野駅までの市川は源流をこの生野の山地に発している。そして南に流れて姫路から播磨灘に達している。
一方生野から少し北へ行くと、川の流れは北上して丸山川となって日本海に注いでいる。どちらも梅雨の最後の大雨で流れが激しく、水も濁っており浅瀬の岩に当って水しぶきが白く飛び散っているのが見える。
何時もは車のハンドルを持っているので、ゆっくり流れを見ることも無いが、久しぶりの一人旅の風情は、ローカル線に限る。一昨年依頼のこの線の利用で、日曜日の夕刻香住に向かった。その時乗車しようとして、ドアの前に立っているのにドアが開かずに自分で開閉ボタンを押さないと開かないことを知った。発車のブザーが鳴っているので本当にあわてたことを思い出した。車内は空いており、サンダルを脱いで、前の席に足をかけ、缶ビールを持って入り、読み止しの文庫本を出し、詠み続けたり、ふと止めて車外の雨上がりの濃い緑の山を見ていたりした。
緑は直ぐ横に迫って来たりして、山津波は大丈夫かと、線路脇の地肌がむき出しの山の斜面を見たりして、退屈はしない。
生野近辺で、分水嶺のことを思い出しながら、ふと例のアホナことを考え着いた。兵庫県を南北に分断する、丁度その山の天辺で小便をしてみたいと思うのである。自分の小便の水溜りが北と南に分断され、それが北は日本海に流れ、南は瀬戸内海から太平洋に注ぐなんて何とも気持ちの良い場所では無いか。昔の学生歌のデカンショ節には、万里の長城で小便すれば、ゴビ砂漠に虹が立つと言うのがあったが、それに勝るとも劣らないではないかと、自画自賛して喜んでニヤっとしていたが、観光の名所にすると、その当りは迷惑な話だろうと思った。
理論的には添うであろうが、土に吸収されてしまって水流まではいかないだろう。あのものが小さい割りに大きなことを言い出すものとやゆされるのが落ちなので分水嶺はおしまいにしよう。帰りの車の中でこの当りに差し掛かった際に、分水嶺のことを孫に話をしようとしたが、疲れて寝込んでしまっていた。家内には恥ずかしくて言えなかった。