パソコンで「Delete」キーや「BackSpace」キーを使って文字の削除を繰り返すことが多い。
ブログの写真貼り付けや「
ハイクブログ」の句やコメント削除も時折行う。
パソコンに保存の写真やデータも不要となれば削除することがある。その際はパソコンが「本当に削除してよろしいか?」と尋ねてきてくれるが、パソコンを習いたての時は躊躇してもう一度確認してOKボタンを押していた。
しかし誰しも同じだと思うが、慣れてくると消す意思でやっているのだから、このメッセージが出てくると、一回分余計にタッチしないといけないので煩わしくて仕方が無い。早く次の画面に展開したいので、面倒な画面である。
ところが、この削除同意画面はチョッとの間、頭の回転の整合性を見ているものと解釈している。勿論先に進みたいのが勝っていて、そんな悠長なことは言っておられないのであるが、この画面が出れば、手を休めなくとも頭の中を削除で良いのだなと自問するようにしている。以前は無造作に行って、何度も痛い目にあっているので、そのことを考えると少しはましかと思うが、熱さを忘れると削除行為は危険なことである。
どうも前置きが長くなってしまったが、最近毎日見慣れていたブログの記事が数日に渡って削除されているのを見て驚いた。結構反響もある楽しい記述で、播州弁を文字で駆使し、感情を顔文字で表された、ユニークな若いお母さんの新しい日記だと思っていた。子育てや家事に追われる母親とそのヒューマンネットが、新しいブログという媒体で開花するものと期待していた。
勿論ブログ自体を止められたわけではないのだが、そこに何かがあったことは容易に察する。子供さんが所属されているチームとリンクされているからのことと思われるが、元は、ご自分で作られた独自のブログなのであるから、支障あるのであれば元に独立されればとも思う。
恋愛日記を失恋と共に破りさくとか、日記メモを見つかってはいけないので燃やしてしまうとかというのと、ブログのデリートは同じ意味を持つ。別なところに保存をしていれば良いのだが、日記を書いた事実は変わらないし、破り裂いたり、デリートすることも事実なのである。
過去を削除したり、デリートして、常に新しいキャンバスや紙面に文字や絵を描くことも気分一新で良いかもしれないが、元旦の前にはどんな場合にも大晦日があって毎日続いており、年が改まっても一日も開いたりすることは無いのである。
先の母と弟を焼死させた事件の高校生の時も「
クリア」したいということであった。自分の過去も、個々からここまでの間を削除し、この間をクリア出来れば最高に楽しいに違いない。しかし誰しも楽しい最高にハッピーな時はクリアしないだろう。辛い苦しい嫌な時こそ、クリアしたいものであるから、それがバネに捲土重来するものと聞いている。
前の夫との子供が邪魔だとかで、小さな子が虐待にあったり殺されたりしている。そう簡単に親のために生命の存在を無視されては、抵抗できない幼児は可愛そうでならない。まるでゴミ掃除の感覚である。不要なもは確かに整理、整頓されなければならないが、それは物のことであって、当たり前のことだが人間を粗末にしてはいけないと思う。いや絶対にいけないことだ。
何かタイトルの「削除」が変な方向になったので、文章を削除せずにこのまま終えよう。