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終の棲家に辿り着き
by kitamura1007
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「北村のブログ」の誕生が、平成16年(2004年)6月19日である。第一声を発して、昨日で満14年を迎えた。毎日の日記代わりに14年間休まずに書き綴っている。昨年4月から現役を引退して、現在は年金生活者である。最近では趣味の「冠句」三昧の日で、今月28日に開催される「国風冠句連盟総句輯姫路大会」の準備記事ばかりを書いており、辟易とされておられる読者の方も居られるかも知れない。
毎年恒例の、丸14年目のブログ現況をご紹介したい。古い読者の方はご存知であるが、私は2度このブログから転居をした。一度目は「余章」(平成16年(2013年)6月18日~平成26年(2014年)12月18日)で1年6か月の期間であった。16,585人の読者があった。続いて「竹之門」(平成26年(2014年)」12月20日~平成27年(2015年)4月3日)で僅か3か月間であった。859人の読者にお出で頂いた。
「北村のブログ」は2度の中抜けがあったが、「余章」や「竹之門」として名を変えて同様に、毎日ブログ発信をしていたので、同一読者である。
現況は、昨日までの読者数と「余章」「竹之門」の読者数を加えると累計17万5千を超える読者を数えることと成った。相も変わらない老人の独語であるが、現在は失業中であるので、仕事記事が書かれていない。これまでのブログ引っ越し時にも書いたが、仕事上の感想を記すことが、問題を起こすことにもなっていた。
古稀を越えた老人のブログであり、誤字脱字も散見され、周りから注意を受けている日々である。何卒「老人介護?」の思いで、これからも、暖かくお付き合い下さいますようお願い申し上げます。
その時私達はJRの新快速電車の満員の車内に乗車していた。朝7時58分頃茨木と高槻駅の間を走行中、突然何かに乗り上げた様に私達の12両編成の最後尾車の車体が揺れた。そして急停車した。またしても事故かと思った矢先、「大きな地震があった様で、確認のため緊急停止しました」の車内放送が流れた。そこで初めて事故ではなく地震発生を知った。乗客の携帯にはアラームが鳴っている様で、それぞれ目にされていた。私も携帯のニュースを確認した。「大阪北部地震」である。
この日は、今月28日に開催する冠句姫路大会の「前開き」をするため、姫路から近江八幡下車で、竜王町の会場に9時着予定で、姫路発6時32分の新快速で6名が乗っていた。
緊急停止後も繰り返しアナウンスはあったが、ヘリコプターの飛び交う音も聞かれ、停電の通知後、空調も停まり、座席の2列おきの窓に赤い記の窓を開ける様に指示があった。丁度窓際に着席していたので、半分しか開かないが、それでも涼風が入り込んで来た。直ぐにLINEで千葉に居る息子の嫁から、心配との連絡があった。息子が作った家族LINEであるが、それを見て、姫路の家内からも家の様子など連絡あった。息子からも自分の会社のスタッフが関空に向かうのに新大阪で足止めになっていることなど、東京で流されている地震ニュースを知らせてくれた。
電車が止まったのは、震源の大阪北部のその真上である。間もなく、トイレに水が出ないアナウンスや、医療関係の従事者の確認放送が流れたりした。車内の掲示板もバッテリーが無いのか、途中で画面が消えたりしていた。窓から、救急車のサイレン音が聞こえたりで、下を行く生徒達が、停車している車両を見上げていたが、暫くすると今度は反対に歩いているのが見えたので、学校が休校にでもなったのだろうかと思っていた。
約1時間程してから、現在高槻駅の東の「総持寺駅」の手前にあり、電車の自主運転は出来ないので、車両から下車して、線路を駅まで誘導しますとの連絡があった。1両目からの順番であるから、私達の車両は最後尾である。暫く待たないといけないので、待っていたが、この間にトイレ案内は大変な行列とのことであった。また世話人さんは竜王の担当者に連絡し、今回こちらから持参している巻を京都まで取りに来て欲しいとの連絡をしたが無理な様だった。
私はLINEで連絡をしていたので、通信に全く不自由は無かったのであるが、携帯電話や携帯メールは不安定な様であった。大阪圏内が一斉に送受信していることから、許容量を越えてしまっている為と思われた。
間もなく、最前列に行き、駅員の指示で車両のドアに付けられた非常階段からホーム内に降りた。持参した30キロには成るスーツケースを、駅員が受け取ってくれ、それを200メートルほど離れた駅のホームまで運んでくれた。流石に駅員さんは息も切れていたが、私は大助かりであった。
駅には、地震難民?で、改札口あたりは床に座り込んでいる人達が多く居られ、電車の再開を待つ様でもあった。避難所が駅近くの中学校に設けられているとの案内もあった。
さて、どうして帰ろうかと、2時間を超える車内缶詰状態から、外の空気を吸うべく駅の外に出て、先ず飲み物を確保と駅前のコンビニに入ったが、パンやおにぎりは皆無で、私はコーヒーを購入した。お茶も無かった。
駅員にレンタカーを紹介してもらったが、電話は通じないとのことで、ふと長岡京に住む義姉宅の車借用を思い立って、電話をしたが5人乗りで、私達6人は無理で、交通機関が運休で自宅待機中の姪が居たので、状況を話し、長岡京のレンタカーを当たってもらったところ、確保できる見通しとの連絡を受けた。当初24時間レンタルであり、翌日返しであったので、また私が家内を乗せて戻ってくれば良いだろうと思っていた。機転の利いた姪は乗り捨てレンタカ―も確認してくれ、2時間歩待ってもらえば手配が出来るとのことで、7人乗りの乗り捨てレンタカーを手配して、直ぐに義姉と一緒に、私を迎えに出た。
1時間程の距離であるが、待てど暮らせど到着しない。当初は私がレンタカーを姪と一緒に取りに戻っている間に、食事でもしてもらって待ってもらう予定であった。
途中171号線西国街道を運転中の姪から報告が有り、名神は通行止め中で、高槻市内は一向に車が進まないとのことであった。結局3時間の大渋滞に巻き込まれて到着した姪は、ストレス一杯で、爆発寸前であった。直ぐに私が運転を代わり、一緒にHさんも同席されて、直前に通行再開した名神茨木から大山崎間を走り、長岡京の自動車会社に30分程で走れた。直ぐに手続きをして夜8時返しの契約をした。道路状況では無理かも知れないが、翌朝返しだといくらか超過料金が発生することになる。
姪や義姉にお礼を言って再び大山崎インターから茨木インターまで名神を走り、JR総持寺駅前に向かった。下の道路は大混雑していた。丁度帰りの通勤ラッシュ時でもあった。
レンターカー会社の職員にセットしてもらったカーナビの目的地が、先程とは違う光景なのである。阪急の総持寺駅が目的地となっていた。JRの駅は最近の新駅で、カーナビにセットされていない様であった。車外の案内物からJRの駅を見付け、4人の待つ駅前へ無事到着した。
早速、帰りのナビ案内をセットして出発し、名神茨木から高速に入り、吹田から中国道に入り、神戸ジャンクションから山陽道に入り、姫路東で下車した。途中いつもの給油所に立ち寄り満タンにした。中国道に入ったので、宝塚付近の大渋滞を予想していたが、何んと、信じられないくらい、車の走行量が少なく、スイスイ走行であった。この日の高速道路が通行禁止状態であったかもしれないが、それこそ高速走行で通行することが出来た。予定の8時までには余裕でもってゴール出来た。
姫路駅で、全員切符の払い戻しを受けて解散した。私だけは、この日の代わりの22日に竜王町に巻開きに出かけ、巻を届けることとなった。乗り掛かった舟である。
久しぶりに空手の試合を見に行った。昨日高3の孫が姫路市スポーツ会館で、姫路市の大会があり、これが高校最後の大会ということで、娘と一緒に出掛けた。このスポーツ会館も、昔少女バレーのコーチ時代に、子供達の試合で良く来たものである。空調は当時から悪く、満員の観客の熱気で、相変わらずムンムンしていた。
丁度10時に到着したが、家内と娘を下ろしてから、駐車場が見付からず、暫く車の中で待ったが、一向に空かないので、一周回って、隣の勤労会館に留めることが出来た。
会館に入ると、直ぐに型の試合が始まった。孫は市内の有力校のキャプテンをしており、先月には団体で近畿大会にも出場していた。この日も第一試合はシードで、第二試合からであり、簡単に勝ち上がった。続いての試合は、残念ながら僅差で敗れてしまった。次の予定は午後3時半からとのことで、一旦家内が用意した弁当を、休憩室で食べた。幼児から一般迄利用しており、昔のバレボール時代を思い出した。
食後一旦帰宅してから、午後2時過ぎに出かけた。到着すると、何んと午後からの組手の試合は始まっていた。孫は試合場の横で座っていたので、試合出場はまだかと思っていたが、結局私達が到着前に終っており、後輩たちの応援もあり、控えていた様であった。
終了後、一般席へ戻って来て、組手は2対3で負けたと教えてくれた。これで3年生の公式試合は終わり、新学年の時代となる。幼児からのやって来た空手とは、縁も切れないだろうが、これからも頑張ってもらいたいと思っている。
昨日校区の小学校の音楽会があった。朝9時から体育館での開演であった。小6と小4の孫が出演するプログラムは、後半であったが私は開演直後から出かけた。既に最初の3年生のプログラムが開始されており、途中からの入場は規制されており、その代り場内の撮影がされているので、入り口の外に置かれたモニターでステージの映像は写し出されていた。少し遅れた人には内部の様子がわかるので、行き届いた配慮であった。
最初のプログラムが終ると、大勢の人が中に入り、私も前の席を確保して着席出来たが、後半に来場する家内の分まではとても確保できなかった。
続いてのプログラムは1年生であったが、こちらは初めて参加した親の方が夢中で、子供に向けて手を振ったりして、子供も返答しないといけないと思い、入場しながら手を振ったり、舞台に上がってからも、親を目線で探したりして落ち着かない様子であった。初めてだから仕方がないが、集団行動をしようとしている子供にとっては迷惑な事である。子供が一生懸命良い音楽をしようとしているのに、親が子離れしていない光景であった。
前半終了時には、校長の挨拶後、校長が直接指揮をして、ステージ上の5年生と、父兄全員で「ふるさと」を合唱した。一番は歌詞が無くても歌えるが、二番三番は、プログラムに掛かれた歌詞が無いと、正確には歌えなかった。
後半の開始前に、家内が来場したが、椅子席は確保出来ていなかったので、前列の床に座っての観覧席に着席した。
後半最初のプログラムは、この学校の特長でもある。ベトナム獅子舞の「ムーラン」である。ベトナム系の在校生が登場してきたが、40人程の人数が出て来て、1クラスは有るのではないかと思われ、年々増加している様に思われた。
低学年はベトナムの民族衣装を着て、ステージに並び鐘や太鼓を鳴らし、高学年は獅子舞の中に入って踊っていた。獅子の数も増えている様である。
音楽会のプログラムは、全体的に、最初に日本語の紹介が有り、続いてベトナムの通訳がするもので、会場の入り口付近も日本語とベトナム語の併記した印刷物が見かけられる。
この学校では早くから校区内にベトナム難民の受入れ宿舎が有って、多数の子供が通学しており、中には子供が親と先生方の間の通訳もしており、国際交流こそ最近話題になっているが、この学校では以前から普通の環境となっていた。
孫達も、一生懸命さが伝わって来る音楽会であった。また帰りには私達老人に、メッセージ付きのティッシュペーパーが配られ、4年生男子の子の「今日はありがとう」の大きな文字が印象に残り、ふれあい交流も感じた次第であった。
先日の安富冠句会の印刷日に今月28日に開催される、「国風冠句連盟姫路大会」の立替金の清算を行ったことは、既にこのブログで記した。その際驚いたことに、早い時期から準備に入られ、事務用消耗品等の立替が行われておられたことである。
この日の清算は私を含めて6人の世話人全てが対象であった。金額の大は7万円を超えておられる方、5万円を超えておられる方、2万円を超えておられる方がおられた。
皆さんお年からして、私同様の年金生活者と思われるが、私などは7万円の立替などは、到底出来ない身である。私も8千円を超えていたので、ピンチであったが、清算出来て一息ついた。
サラリーマンの特に外勤者では、営業活動による交通費や手土産、接待等の経費を、事前の概算前金として会社から受取らず、領収書添付の後日清算払いが多いことと思われる。その場合立て替えておかなければならず、自前の所持金からの調達となる。5万円も超えれば、家計にも影響しかねないところである。皆さん台所事情をご承知で、よくぞ御辛抱を頂いたと感謝している。
今回の清記担当者が、思わぬ投句の入花料の受入れや、選者からのご祝儀を受ける窓口になったために、急遽大会の会計係にもなったようである。今更あれこれ辞退しても始まらないので、後2週間の我慢である。結局残り、大会当日の会場経費と事後の印刷経費が主なところで、18日に滋賀県竜王町で開催する「前開き」時の会場経費や食事経費、それに印刷した「採華抄」の発送経費を支払うと、収支はトントンとなってしまいそうで、慰労会の捻出は到底出来ない状態である。
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