五・七・五は俳句や川柳の短詩文芸の基本型であると覚えて来た。俳句は季語を入れて自然を詠む。川柳は人間を詠むと学んで来た。同じ流れにある冠句も五・七・五の定型を踏むが、最初の五を「冠題」と言われて課題に提示される。それに続く付け句の七・五で先の冠題をカバーするという、二章一句の作品である。
創作するのは付け句の七・五であるから正しく俳句、川柳以上の短詩文芸となる。この短い句の中で作者の世界観を述べるのである。
川柳について少し書いておきたいことがある。冠句は先程述べたように冠題が与えられて、それに付け句をつけることであるが、自由吟というものがある。これは最初の冠題となる五文字から自分で創作して読み上げるものであるから、俳句、川柳と同じである。特に季語を入れなくてよいから川柳と同じ型となる。
国風冠句でも「読み込み句」というのがあって、「天」という課題があればそれを、五・七・五のいずれにも詠み込んで句を作るものである。「テン」と読もうと「アマ」と読もうとその字が入っておればよいのである。川柳の「課題」と同じである。川柳ではその文字を入れなくても良いのであるが、いずれも定型で詠まれるものと思っていた。
過日播磨川柳大会に出席して、発表される上位句にこの定型に拘っていない句がたくさんあった。どうも異質な感じで会場を後にした。所謂字余りや中八の句などである。
川柳にもいろんな会派があることは知っている。サラリーマン川柳などは新聞紙上で年末の話題を一時独り占めすることがある。それでも定型パターンは守られているので耳触りが良いが、非定型だと内容は良くわかるのであるがリズム感が良くないのである。
そう思っていたら、私が時折投句していた朝日新聞の「あさひ川柳」の今朝の秀逸句として紹介されていた句であるが「抱負七色浮雲の暮らしにも」これは七・五・七となっており佳作にも「針ほどのことと見上げる空の青」、「晴耕雨読何て贅沢なんだろう」とか非定型の句が多数あった。
選者は先月から変わられており好みから選ばれているものと思うが、これではどうもしっくりいかないので、川柳投句をもう見合わせようと気に成って来た。踏み入って川柳をするつもりは無いが、私は定型で続けたいと思っている。人の数だけ川柳があり、句会や会派もあるのであろうが、投句も定型を宗とするところに投じたいと思っている。