昨日の午後から、1か月振りに姫路冠句会が開催された。毎年6月例会は但馬で隔年で、久佐太郎忌、明楽句碑祭りが行われており、今年は6月2日に養父神社で明楽句碑祭りが行われた。姫路組出席者は、時間の都合から和田山観光ホテルでやまざと700号記念祝賀会が行われ、その準備に当たった。今年は祝賀会のため投句は無かったので、5月以来の句会であった。
1か月飛ぶと、世話人さんからの連絡事項もあれこれあった。その中に、文芸塔の京都在住のIさんが、7日の京都眞浄院で開催された久佐太郎忌冠句大会を前に、「円山公園の太田久佐太郎句碑」を尋ねたところ、草が茂っており見かねて除草をされたことが紹介され、その際の写真も回された。京都市にも掃除等の交渉を行ったところ、7,8万円を要するとのことであったとのこと。
確かに句碑を含めて、各地で碑を建てて偉業を偲ぶ会がある様であるが、ご多分に漏れず神社内の句碑は管理されているかも知れないが、公共の場である墓石や碑は管理する方が不在になれば、草の中に眠ってしまう。
お話を聞いた世話人さんから、吟行を兼ねて清掃行事に行きませんかとの呼びかけも行われたが、唐突であったので誰からも意見も出なかった。もう少し練る必要があるだろう。現在の6月の但馬の句碑祭りにしても、先生が不在となれば、継続して行事参加が出来るかと言えば、不安だらけである。親の墓参りにも参加出来ない者が、赤の他人の句碑に参加はしないだろう。いろいろ事情があるにしてもである。私は今後の管理を思えば、句碑や墓標の設置については慎重であるべきだと思っている。立派なお墓を建てられてから、お参りが途絶えがちな墓地の風景がある。それこそ仏作って魂入らずである。付和雷同で流れに押されるのではなく、先々も見据えて行くような者が居ても良いだろうと思っている。
by kitamura1007
| 2019-07-14 09:23
| 冠句
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