昨日は地域公民館で教養講座「姫路の歴史 姫路城開城④総集編:姫路城開城の真相」について、好古学園大学講師の藤原龍雄先生からの講演があったので出席した。一度だけ行事と重なり欠席したが、資料は後から頂いていたので、ほぼ大筋では理解出来た。何せ歴史教育でも大政奉還から明治維新へと日本の近代化は大きく変化を遂げており、郷土史までは学校では教わらなかった。また当時の資料も最近になって出て来た様で、姫路史の編纂事業にも携わっておられる講師からは、まだ不明な資料もあると言われていた。
そのため、姫路藩の幕末が正しく理解されていなかった様である。大政奉還後の政局として、①薩長中心の「討幕派」と②公武合体論の穏健中道路線の「公議政体派」と③「佐幕派」に別れ、こちらには会津、桑名、姫路藩等が属していた。結局鳥羽伏見の戦い後姫路城の開城要請が出た。
一旦「本領安堵」が決定さたが、その後に更に大きな曲折があって、藩が分裂し、「甲子の獄」で勤王派が清酒くされ、維新後には佐幕派が粛清される「戊申の獄」があり、廃藩置県後に、多くの赦免や復籍があって、士族の解体へとつながったものである。今回の連続の講義から、少しは闇であった、姫路史の真相のいったんが少し明らかになって来た。大きな歴史の流れの中で、当時の武士道の幕臣のイデオロギー「忘恩の王臣たらんより全義の陪臣として」も心打つものがある。
by kitamura1007
| 2020-01-29 06:00
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