横綱はチャンピョンにあらずである。相撲界最強の地位の横綱は英語で「 grand champion 」と訳されているようであるが、更に詳しくは「sumo wrestler」とまるで、ちょんまげレスリングとでも思えるような紹介である。
日本の国技であっても、今や国際的?な競技である。大相撲に占める外国人の割合も多くなり、幕内以上では大半が外国人力士が占めており、上位陣も多い。取り分け最高位の横綱は外国人が占めている。日本人横綱が絶えて久しくなっている状態である。
横綱朝青龍の引退騒動で、相撲協会が揺れている。時同じく理事選挙での顛末から元横綱貴乃花の理事選出場と、同調する親方の破門、選挙立会いの公正さ、一門からの造反投票と古い体質の協会が国民注視の中であからさまになっている。これまでの改革が親方任せの放任だった付けが一度に出て来た感じである。
「心技体」と横綱には一種神がかりな神格でも求められている。20歳代の若い青年に対して、中高年の老人達が過酷な要求をしている。自分の息子を見ればわかるはずと思うが、宗教的な教えを受けた訳でもなく、先輩や親方衆からの受継いだ教えであり、それも日本に来てわずかの内にどれほど吸収できようか。
自ずから土俵の上で強ければ良いということになってくる。聖人君子でも強くなければチャンピョンに成れないと覚え込んだのか知らないが、どこかの国の国会議員が選挙をすれば禊(みそぎ)として全て清算されたと言うように、いくら取り組み前夜に遅くまで飲んでいても土俵に上がって、「鬼になって」相手に勝ちさえすれば帳消しである。勝ち星が優先する勝負の世界である。練習しなくても勝てば官軍である。
協会の中にも自省される方もおられるであろう。一人横綱に長く依存して来た協会幹部や、取り分け「高砂」親方の監督責任たるや情けないものである。息子が金蔓で、息子に食わして貰っているので、次第に強く言えなくなって放任したのであろうか。協会の抜本的な改革無には、相撲道の道険しである。
本当に強く、憎たらしく、愛嬌のある力士がいなくなると土俵の面白さが半減してしまう。一層のこと協会役員の親方衆に、プロ野球OB会の野球のように、土俵での一門対抗戦でも見せてもらおうか。